『推し活』って、良いことなのか?

もし、人生で誰かのために使えるエネルギーが一定だった場合、『推し』に向けられるエネルギーは何で、本来どこに注がれるべきだったのでしょうか。

急になんぞや、と思われるかもしれませんが、ひとつの思考実験として適当に書きます。『推し活』を批判するものではありません。

『今まで』の場合

まず、エネルギーは大きく分けて2つと定義します。シンプルに「時間」と「成果」です。

「時間」は相手と一緒に過ごした時間とします。その時間は相手も自分のことを見ざるを得ず、それなりに等価交換されるものだと思います。『心』というものを定量化して計るのは難しいと思っていますが、もっとも近いものはこの「時間」かな、と個人的に思っています。

「成果」とは、相手に提供できるメリットとざっくり考えます(大体の場合は「お金」)。ただ、ここでいう「成果」は純粋なお金の金額などではなく、それを獲得するプロセス(自己成長の上に得たもの)も併せて提供しているもの、というイメージです。

このエネルギーを注ぐ先はライフステージによって変わるものと考えています。個人的な所感では20歳頃までは自分自身。以降は、20代はパートナー、30代以降は子供や後進、となるのがいいんじゃない?と思っています。

もちろん、それに全力を注ぐ、という意味合いではなく、あくまでメインストリームとして、で人という面では友人や仲間にも、何より、その人達のためにも自分自身の学業や仕事を努力することが重要だと考えています。ただし、エネルギーの総量は一定とし、どこかに注いだエネルギーは他には注げないものと定義します。

そして、彼らは注いだエネルギーを見て、評価してくれるものとします。これにより、自分の承認欲求が満たされるもととします。自分を含む『誰か』のために自己成長をし、評価され、承認欲求が満たされる、その上、もしかしたら『誰か』はより一層、そんな自分にエネルギーを注いでくれるかもしれません。自分にとっても相手にとっても利益のある理想的なサイクルだと思います。

まとめると「自己成長→エネルギーを注ぐ→認めてもらう」というサイクルがある状態です。

※エネルギーには個人差があると思います。あなたのエネルギーを評価してくれる相手に恵まれることを祈っています。

『推し活』の場合

さて、『推し活』ではどうなるのか。

エネルギーの定義はそのままに、エネルギーを注ぐ先をもちろん『推し』とします。

「時間」も「成果」も『今まで』の場合と大差ないかもしれません。「時間」について、「相手と一緒に過ごした時間」かどうかは場合によりけりかと思いますが、いったん置いておきます。

ここでも、エネルギーの総量は一定として、『推し』に注いだ分は他には注げないものと定義します。

さて、次に注いだエネルギーを評価してくれるのは誰で、どういった方法になるか考えます。

  • ①『推し』

もし、『推し』が自分の「時間」も「成果」も、商売上の関係抜きで正当に評価してくれるのならば(あるいは、そう感じることができるのならば)、「今までの場合」で述べた理想的なサイクルは実現可能で特別の違いはないと考えています。実際、周りに自分のエネルギーを評価してくれる者がいなければ救われることもあるでしょう。

ただし、もし「成果」のうちの「それを獲得するプロセス」を除いた結果しか評価してくれない場合もあるかと思います。

  • ②『推し活』仲間

『推し活』をしている自分の承認欲求を満たしてくれているのは、実は『推し』ではなく、自分の活動をSNS等で発信して、それに「いいね」をつけてくれる『推し活』仲間、ということもあるのではないかと思っています。そしてSNS等で発信できるのは「成果」のうちの「それを獲得するプロセス」を除いたものとなっていると感じています。SNS等では「時間」や「プロセス」などで育まれるものは伝わりずらいからです。つまり、こちらも結論、評価されるのは「成果」のうちの結果のみです。

  • まとめ

どちらのケースも「成果」のうちの「それを獲得するプロセス」への評価がされない場合があり、その結果、人によっては動機として自己成長につながりにくくなります。(なるべく早く、結果を出す、という方向に進みがちになる、というイメージです。)

さらに、②『推し活』仲間が承認者となる場合、エネルギーの投入先と評価者が異なるので、投入したエネルギーに対する正しい評価がされないことも、より一層「時間」や「プロセス」などの重要性を希薄化させる一因になると思います。

結論

『今まで』と『推し活』を比較した場合の違いは下記の2つと考えています。

・エネルギーの総量を一定とするとき『推し』に注いだ分は他には注げない

・承認欲求を満たす際、「成果」だけが強調され「成果を獲得するプロセス」への承認がなおざりになる

この2つを除いては、『今まで』と自分にもたらす効果に差異はないのではないかと思います。

ただし、この2つの違いが発生する場合、動機の面も含めて「自己成長」に使うエネルギーが『今まで』と比較して減少してしまうのではないかと考えています。特に、若いときは「自己成長」に使うべきエネルギーの比率が大きいため、過度な『推し活』の結果、十分な「自己成長」が達成できないのかも、と懸念しています。さらにその結果、十分な「自己成長」ができなかった場合、『推し』では無い『誰か』の存在を得られず、より一層『推し活』にのめり込んでいくことになるのかもしれません。

独り言(自分語りなのでスキップで大丈夫です)

自己成長につながる『推し活』なら、何も問題は感じてないんだろうなぁ、と書いていて思いました。

これ書きたかったの、自分が「まだ『推し』に向けてのエネルギーは使わず、自分にエネルギーを使いたい。『推し活』はまだ早い」って思っているエゴの部分も大きくあります。パートナーいないんで、それについての言い訳の面もありますが。

あと、「自己成長しないとね」と言いつつ、最近、限界は感じているので、それもそろそろ言い訳レベルになってきたなぁ、と思ってきたので、諦めるのは時間の問題とは思っています。ただ、意外と往生際が悪くて…。30歳のおっさんが何言ってるんだろう、という話ですが。

エネルギーを他人に使うってことは「自分に使うエネルギーを制限してまで、誰かに自分の一部を託す」もっと極端にいえば「自分をどこか諦めて、誰かにつなげる(きっと特にパートナーや子供に対してが適切なんだろう)」ことっていう気持ちがあって、『推し活』が嫌である、というより、自分を諦めたくない、という感覚のほうが強いかもしれません。その考えは極端すぎるだろ、と自分でも思いますが。

それと、『推し活』に限らず、現在、エネルギーを吸収するコンテンツは山のように出てきていて、自分や身近な人に使えるエネルギーは減っているんだろうと思います。

個人的には最近の「風呂キャン界隈」って、急激に情報量が上がった現代における、エネルギー不足による、軽いうつ状態なんじゃないかって思っています。なんか、うつ病ってまず風呂入れなくなるらしいじゃないですか。

まぁ、外出しなくて済むようになったから、とか、シンプルにSNSの普及で顕在化するようになっただけとか、そのおかげで意外とみんなやっているから自分もやっちゃお、とか単純な理由なのかもですが。ただ、自分も4~5年前くらいから風呂キャンし始めてしまったのですが、もともとは綺麗好きでそこまで毎日風呂入ってたんですよね。いや、コロナ禍きっかけなのかもですけど。

自分が違和感を感じているのは、積極的に『推し活』のコンテンツを作りまくったり、そこへのエネルギーの投入を煽ってしまう民間企業へ、なのかもしれません。もしも、この世にコンテンツが増えすぎたことで人類の疲弊が進むのならば、その問題について少しくらい葛藤しておいてほしい、という気持ちがあるのかも。もちろん、責任を取る必要性も、そもそも、どれほどの責任があるかもわからないのですが、だからと言って「自分たちは無関係」と言い切ってほしくもないなと。

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