はじめに
今回は「みいちゃんと山田さん」のアニメ化の炎上騒動について自分の見解を示します。作品の内容の紹介自体は名だたるYoutuberの方々が簡単にしていると思うのでここでは割愛します。
現象としての炎上
まず、炎上すること自体は理解をしています。
法律という基準とは別に、社会で一般的に形成されてきた「超えてはいけないライン」である社会通念的な基準があって、それを跨ぐコンテンツが表立ったときに炎上する、というのはもはや社会的な儀式、かつ、健全な事象だと考えています。
今回の「みいちゃんと山田さん」の作品はポップな絵柄でありながら、様々な「生きづらさ」や「性」、「死」というテーマを扱っており、かつ、それぞれのエピソードが現実味を帯びて描写されているからです。
また、特に「生きづらさ」の部分については、境界知能や知的障害、発達障害などを想起させるような、どこか今までタブー視されてきて、一方で、現代においては隠しきれなくなった要素が入っており、これを今のタイミングで表に出すインパクトは大きいものと思います。
では、なぜこの騒動に筆者が違和感を抱いたのか、自己分析の結果を2つに分けてまとめていきます。
①アニメ化に対する炎上への違和感
1つめはアニメ化への炎上についての違和感です。批判の内容は多々あるかと思いますが、アニメ化にあたっては「漫画より受動的にコンテンツを享受できるようになることによってこの作品の認知が広まり、この作品の登場人物のような人への悪事を働く人間が増えるから」という主張が多いと思います。下記の図でいうところの『B』に当てはまるようなイメージです。

率直に言って、それが発生するのならば、原因は「教育の不足」だと思っています。学校の教育に限らず、社会通念を守らせるための社会全体の教育の不足の意味合いです。
筆者の主張では、「教育」が改善されればこの問題は発生しない=このような作品が炎上しなくなる、というロジックになるのですが、今のやり方では「教育」は改善されないと考えています。なぜなら、社会通念のあり方が「教育」の改善に向かう形をしていないからです。
②社会通念に対する違和感
2つ目は、炎上の基準となった、現在の「社会通念」に対する違和感です。今回の問題についてはそもそもの「社会通念」自体に疑問があると考えました。まず、筆者は上記の図における「A」のポジションを増やすことが最も重要だと考えています。特に、今回のように「現実でもありそうな事象」を取り扱うテーマであればなおさらです。例えば、実在する事象である殺人や詐欺などの犯罪については大半の人間が図の「A」のポジションにいると思います。
今まで、境界知能や知的障害、発達障害などはタブー視され、社会で表立つことはなかったと思います。それらの概念を社会の外にやってきたように思います。そして「それらが社会の外にある状態なのであれば、限られた『B』の人間がいても問題にならないような社会通念」だったと考えています。そもそも、概念もろとも視界の外にあるのであれば、それについての行動も無いものとして扱えるからです(仮に実在していても認識上は)。
しかし、近年、そういった障害などの概念はある種自分という存在の属性の一つとして自己申告的に、あるいは、そういった人々への接し方のようなハウツーとして、インターネットの発信力で以って徐々に表舞台に出てきました。とはいえ、まだ一般的な認知でなく、ましてや、正しい接し方などは浸透していない可能性が高いです。当然ながら、今まで社会の外にあったからです。
筆者は、こういった生きづらさを抱えた人間たちを「B」の人間の存在もろとも社会の外に追いやった(透明化した)人々には、その責任があると考えています。そして、今回、それらの人々とアニメ化に反対している人々は同じことをしようとしているのではないか、ということをアニメ化炎上への違和感という形で強く感じています。何なら、自分が実は「B」に分類されることが明らかになってしまうから、おおやけになって欲しくはないのではないか、とすら勘ぐってしまいます。
社会は確かにこの作品を受け入れる準備はできていないと思います。なので、そういった意味でのアニメ化の反対は理解しています。ただ、少なくとも社会通念の形成され方がこの方針である限り、受け入れる準備ができる時は訪れないとも思っています。準備ができていないものはひたすら視界の外に追いやって、それに関する問題が発生しても静かに処理し、いつまでも存在そのものが無いかのように振る舞っていくだろうことは想像に難くないからです。
対象となる概念自体を透明化する社会
この「準備ができていない概念を透明化する社会」の懸念点は、対象の概念に対する「B」の人間は少ないながらも、その人々を止める手段を社会が持ちえないところにあります。繰り返しになりますが、対象の概念がそもそも社会通念上存在しないので、その概念を対象に働く「B」も定義できない状態だからです。結果として、潜在的な「B」と「C」「D」のポジションが大多数を占める世の中はデメリットの方が多いのではないかと思います。
もちろん、ありとあらゆることについて、すべての人間が「知っている」状態になるべきとは考えていませんし、現実的に不可能であると認識はしています。ただ、こういった炎上騒動を引き起こすような、当事者が多いような事象ならば、「A」の人間が多いほうが良い社会であると筆者は考えています。
最後に
言い残したことを書いていきます。知名度も信用もないので、言いたいことをつらつらと。
・作者や編集者について
「作者や編集者の人格は作品と関係ありますか?」という疑問についてです。題材がどうあれ、作品はエンターテインメントを目的に作られていると思っています。
そして、作者や編集者がそのエンターテインメントの見どころとして、登場人物の「弱さ」や「苦しむ様」を挙げること自体は問題が無いように思えてしまいます。別に他の作品でもあると思いますし。ましてや、お仕事として作品の見どころを挙げただけで、それを個人の人格と勝手に捉えられ、あげく、否定された方々には同情を禁じえません。
実体験を基にしている、というところがややこしい要素とは思いますが、どこまでが真実でどこからが脚色かがわからない以上、作品は作品としてみるべきだと考えています。
・アニメ化に反対する人々について
「あなたたちの手は、心は、綺麗なんですかね?」というのが正直に問いたいところです。実は個人的にモヤモヤしているのはこの点です。もちろん、汚れていたら反対してはいけないよ、と言うつもりはないですが、少なくともインターネット界隈にいる方々は少なからず汚れてしまっているのではないかと思ってしまい、胸に手を当てて反省してから反対したほうがいいのではないか、と思ってます。最近はインターネット上での考え方がかなりリアルにも影響していますし。
少なくとも「チー牛」「弱者男性/女性」「カリカリ女」「おじ」「パパ活女」みたいな言葉を生み出して、普通に誰でも目に付くところに書いてしまうようなインターネットにした分際で、今更「みいちゃん」は駄目でしょ、って本気で思ってます?あれ?それって、逆に「みいちゃん」以外の概念に対してはいくら攻撃してもOKって意味です?まぁ、言葉に対しては抗議先が不明瞭なので反対しづらい、漫画・アニメは抗議先が明瞭なので反対しやすい、っていう事情は汲むべきかと思いますが。
色々考察してみましたが、「ただのインプレッション稼ぎ」という線もあると思っています。その場合は、そこそこ邪悪ですね。何も考えず、ただ数字が取れそうだからやってみるのは炎上系の手法なのでよくないと思います。
あと、批判が集まっていることに取り敢えず便乗して叩く「正義中毒」と言われる状態の方々もいらっしゃるかもしれないですね。その方々の正義は相対的なものと感じていますが、この話題の中で絶対的な正義があるとするなら、「生きづらそうにしている人」を支えてあげることかなと思うので、何卒よろしくおねがいします。もしかすると、その正義はネットだけでは体現しづらいかもしれないですよ。

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